こんにちは。つぶあんです。
9月には秋の彼岸の入りと明けがありますね。
同じく3月にも春の彼岸の入りと明けがあります。
今回は日本の四季に関係する彼岸について分かりやすく解説していきます。
彼岸(ひがん)
暑さ寒さも彼岸まで。と聞いたことはありませんか?
春の彼岸の頃寒さが和らぎ、秋の彼岸の頃暑さが和らぐ時期。
彼岸とは、日本の雑節にある季節の移り変わりを表す言葉のひとつで、日本独自の行事ごとです。
期間
期間は、春は春分の日、秋は秋分の日を中日とする前後3日間(合計7日間)のことをいいます。
一日目が「彼岸の入り」、最終日を「彼岸の明け」と言います。
何をするの?
彼岸には、先祖供養をします。
仏教ではあの世とこの世のつながりを大切にすることから、この時期に先祖をしのび仏事を行う期間を彼岸としています。
しかし、この行事は初めから仏教と深いかかわりがあったように思われがちですが、もともとは日本の独自のものです。
仏教の本場インド、また中国には彼岸の行事はありません。
彼岸のお供え物
日本の彼岸のお供え物として代表的なのが「ぼたもち」「おはぎ」です。
どちらも同じ食べ物のことです。
春に咲く花は牡丹 「ぼたもち」
秋に咲く花は萩 「おはぎ」
呼び名はそれぞれ季節の花から名前をとっています。
その他には果物や個人の好物だったものや花などをお供えにします。
歴史
さて、もともと日本独自の言葉だという彼岸ですが、日本の仏事ごとになったという歴史があります。その歴史を紐解いていきましょう。
彼岸の歴史は1200年以上前にさかのぼります。
西暦806年に初めての仏教の行事としての彼岸の発祥となる会が開かれました。
その理由は、早良親王(さわらしんのう)の鎮魂のための会でした。
その後は春分と秋分の日を中日とする7日間に経を読む命令とともに日本独自の行事に変わっていきます。
早良親王とは
崇道天皇(すどうてんのう)西暦750年~785年 奈良時代 光仁天皇第2皇子
没後崇道天皇と追名されましたが、皇位の継承がないため歴代天皇には数えられませんでした。
垣武天皇の側近である藤原種継の暗殺の疑惑をかけられ幽閉されました。早良親王は無実を主張し断食。淡路国に流刑途中で絶命されました。
早良親王に疑惑をかけたのは兄である垣武天皇でした。亡くなった後、垣武天皇の身の周りに次々と不運が起き、祟りと恐れられます。
垣武天皇はすぐさま陳謝し、早良親王の名誉を回復のため崇道天皇と追名しましたが、不運はおさまりませんでした。
思いは今の時代へ継承され、現在でも東大寺にて毎年神名帳を奉読し怨念を慰めています。
現在は奈良市にある崇道天皇社と御霊神社、京都の崇道神社の祭神として祀られています。
彼岸という言葉の意味
「彼岸」という言葉は「あの世」のことを指すとあります。
ご先祖様はあの世とこの世を隔てた川の向こう岸である、究極の安らぎの場所「彼岸」にいらっしゃいます。
その反対に私たちがいる場所は、「此岸」(しがん)という現世です。
この時の隔てた川というのは煩悩のことです。つまり、私たちはこの世である此岸で修業を終えたのちに彼岸へ迎え入れられるとされています。
彼岸への思い
太陽が東から登り西へ沈む。その西の方向に彼岸があると考えられてきました。
春分と秋分は、昼夜が同じ時間になるとされ陽が沈む方向は真西です。
あの世とこの世との距離が一番近くなるこの時期に、ご先祖様のいらっしゃる彼岸に思いをはせ行事が執り行われるようになったのです。
元々は鎮魂の思いから始まったとされる彼岸行事ですが、ご先祖様を供養するだけの意味合いではなく「此岸」(この世)で煩悩と迷いにまみれて修行を終えたのちに極楽浄土へ行けるようにとの思いで現世に残ってきたのだろうと言われています。
まとめ
いかかでしたか?彼岸にまつわるあれこれ。
彼岸とは仏教からきた言葉ではなく実は日本独自の雑節の言葉でした。
日本に彼岸として浸透する前のはじまりが鎮魂のためだったという事。
先祖を思い現世の魂も極楽浄土へ行けるようにとの思いへ変わっていった現代。
現代では「彼岸会」として仏事ごとになっていますね。
雑節のことは知っていたのですが、仏教から来たと思い込んでいたので私もこの歴史を知った時には驚きでした。
あまり知られていない彼岸のことについて今回は深く探っていきました。
知れば知るほど興味がわいてきますね!
今回も学びが興味に変わりました♪
最後までおつきあいありがとうございました。
つぶあん
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