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【不登校経験記その4】行ったり来たり。でも、時間とともに何かが変わっていた。

⁑不登校経験
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我が家の次男の不登校の記録を綴っている経験談 最終・第4回目です。

この経験が誰かのお役に立てたら幸いです。

以前の記事が長すぎて編集し4回に分けました。

1回目はこちら

2回目はこちら

3回目はこちら

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通信高校2年生に


2年生に進級して、高校の学習も滞ることなく進めることができていました。

その通信高校の場合、毎日通学するパターンもあったのですが、次男のような学習スタイルを選んだ場合は、担任の先生は3年間同じ。

可愛い先生で、次男とすぐ仲良くなりました。と言ってもほぼ会う事はないので、LINEと電話のやり取り。

通学がない代わりに、合宿があります。2泊3日の合宿は私だけが緊張して送り出しましたが、次男は楽しんできました。

そこで知り合ったのは様々な年齢の方々だったそう。

次男だけが本来の2年生の年齢で、1歳年上~15歳ほど年上の方も。

中卒で就職した人。高校を中退した人。仕事で高校に通えなかった人などなど。

合宿で学園生活?を満喫してきたみたいです。

アルバイト

秋でした。

長男がバイト先に聞かれました。人を募集してるから弟さんバイトに来られない?

次男の初めてのバイトがひょんなことから始まりました。

兄が働いているから安心じゃない?と次男さえいいならと背中を押しました。

精神科の先生もやってみたら?と。

欲しい物もあったようで次男も長男と同じ場所へバイトに行きだすことになりました。

前向きに

その頃私も復職することになりました。できる事なら戻ってきて欲しいと。

タイミングが良かったのでお言葉に甘えさせてもらい元の職場へ戻って仕事を再開です。

良いことは連鎖するのでしょうか。そんな気分で何事も前向きに捉えられていた頃です。

アルバイト代で欲しいゲームを買ったりしてましたよ。

バイト先で人気もあったようでかわいがってもらっていました。

また一気に環境が変わりました。

私も次男の作業療法のある日を休みに固定してもらい新たな生活が始まりました。

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突然 再び


年が明け、次男がまた胸の痛みを訴えて突然バイトを辞めることになってしまいました。

バイトの途中で胸が痛くなり、気分も悪く吐き気がするというので迎えに行くと、そのままバイトを辞めることに。

その後すぐの診察で精神科の担当医と次男が決めてきたことを聞いて耳を疑いました。

入院でした。

え?入院?なぜ?

担当医の話はこうです。

精神科の薬は10代の若い人の処方する際は24時間の監視が必要なので入院治療しかできないから。

診断書に書いてあった病名は、「うつ病」でした。

入院

通院していた病院は診療のみだったので、作業療法と同じ病院へ入院することになり最低1か月

どのくらい伸びるかは分からないとのお話でした。

入院時は細かい決まりがありました。

持ち物に刃物はダメ。

ひもが付いているものはダメ。

他にも細かく指示がありました。

入院中の面会は割と自由で朝から行ったら陽を浴びるように言われ窓越しのベンチで。

できるだけ毎日通って様子を見に行きました。←スマホの充電が切れてしまうためでもあります。長いひものようなものがダメなので。コードを持ち込みできません。

私が行けないときには、母も足を運んでくれました。

その間、元高校の仲良し4人組(次男を入れて)のメンバー3人が揃ってお見舞いに来てくれなんだか感激してしまった私。

会ってみたくて急いで駆けつけて挨拶をして送り出しました。

その後も来てくれたみたいです。

時間さえ守れば外出もOKなので、カラオケに行ったそう。

処方箋薬も問題はなく飲み終えることができ、初めの予定通りひと月で退院

入院中にカウンセリングに呼ばれ私も次男抜きで担当医と話をしました。

「お母さん、ひとつ、どうしてもお伝えしたかったことがあったんです。

次男君の今までの事、お母さんが原因という事は一切ありませんよ。」と。

何の話かと思ったらこうも付け加えて

「お母さん、いつもいつも緊張されてますね。少し力抜いてご自分をもっと大事にしてあげて下さい。」

って言われました。

「ええっ?」

とぽかんとしたのですが、ずっと自分を責めていた部分もあり自然に涙があふれてきていました。

「あ、ありがとうございます。」

力が抜けました。先生の言葉ってすごいかも。

そんなこんなで入院生活も終え、次男は3年生に。

通信高校3年生に

もう、すっかり通信生活に慣れ、定期的に病院へ。

休まずに作業療法へも行っていました。

その頃、同じ通信高校へ仲良し4人組の一人が入ってきたんです。

1年生の時同じクラスだった仲良しの子です。

こんなこともあるのねとビックリでしたが次男は喜んで、先に入った先輩風ふかしていました(笑)

3年生の合宿と文化祭も一緒に行こうぜ!と楽しく高校生活できそうでした。

卒業

気が緩んだのか、レポートが卒業式に間に合わず、

でも大丈夫です!卒業証書はダミーを渡しますと先生から連絡があり、卒業式はとある会場で執り行われました。

あいにく友達は来れずでしたが、次男は無事に高校を卒業。

担任の先生は次男が卒業後、福祉の仕事へ変わられました。

先生のことは書きませんでしたが、今思えば、次男のような子供たちの力になりたいとおっしゃっていた方なので

先生にとっても次男にとっても出会いだったのかもしれません。

その後


卒業してからも精神科へ通院は続いています。

初めのうちは、社会復帰して就職できるようにとB型支援施設で軽作業をしていました。

早ければ3カ月、長い人は何年もいるそうで、社会復帰を目指し支援する場所なんですが、バイト代に換算するととても安い。

給料と言うものは出ずに、作業代金のような形でひと月に少額もらっていました。

それでもそういうことを継続して行っていくことが大切なんだと思います。

そのあと次男は自分でハロワークへ何度も通って、自分で仕事を見つけ面接を受けに行き就職。

現在は片道1時間弱掛けて通勤しています。そうなんです!地下鉄に乗れるようになったんです!

働けるようにもなったのもすごく前進です。

以前は週一だった通院も2週おきになり、月一に変わって、その時はお休みをもらってます。

まだ、先は何が起こるか分かりません。

それでも、次男にとって様々な事が自信になってきたことは間違いないと思います

私はできる限りこれからも見守って助け合って家族仲良く暮らせたならと思っています。

そのうち家庭を持って巣立っていく日まで。

こうして書きながら記憶をたどっていますが、次男が不登校になった時は本当に必死だったなぁと思い出します。

生きててくれるだけでいいと何度思ったことか。

我が家は母もうつになったことがあります。

私が帰宅したら家は真っ暗で、その中に母がいました。

テレビ大好きな母が電気もつけずソファに正座したまま宙を観ていた姿は私の記憶の奥にしっかりと残っています。

二度とそんな姿は見たくありません。

学び

大切な人を守りたいから。

まずは自分のことを大切にしてあげて。

そして自分の価値観を押し付けるのだけはやめよう。

普通ってことは難しい事なんだと気付こう。

沢山の選択肢があるのに見えていないかもしれないから視野を広げよう。

そんなことを学んだ気がします。

今、あの時の私と次男のように、出口が見えずに不安になってる人へ、

こんな家族も地球のどこかにいるんだよって思ってもらえたならそれで書いた甲斐があるって思います。

ただただ書きなぐってしまいましたが、しかも3つも!

私自身も胸に刻んでおきたいと思います。

本当に貴重な経験でした。

最後まで読んでくださりありがとうございました。

つぶあん

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