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自分を人と比べるより、自分を知る&相手を知ることの大切さ

⁑自分ケア
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人と比較することは時と場合によっては必要です。
様々な実験をして出た結果による統計を取って行くいろんな研究などには必須課程です。

しかし、自分と自分の周りの世界の中での人と比べジャッジする必要はそこまでではないですよね。

今回は自分だけなら気が付かないけれど、同じ方向へ向かう人がいる場合の自分と対照してしまう自分の心が生み出す気持ちについての私の考え方にプラスして私の日常です。

  

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優越感と劣等感

有利か不利かで比べる

人は誰かと自分を比べて優越感や劣等感を抱く生き物です。

あの人より自分の方が優秀だと思う比較をしたり、逆に勝手に比較して落ち込んだりもします。

これって自分の中で勝手に思い込むだけの事なのですが、何故かそう言う事で心の浮き沈みが日常茶飯事で繰り返しをしているんだと気が付きました。

 

誰かの特に意味もなく発した些細な言葉ですら、誰かの心を喜ばせたり傷つけたりもします。

人と人との間にはそういうやり取りが日常的に行きかい、心の波が行ったり来たりしているんですね。

なんだか複雑ですね。

それにしても、こういう自分の中で起きている他人との比較って何か得るものがあるのでしょうか?

自分の中でのジャッジは時として自分の印象を悪くしてしまう事があります。

  

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自分より上とか下とか

意味もないのに人に上下をつける

優越感と劣等感と似ているけれど、この人には言えるけど、あの人には言いにくい。

そんな人いませんか?

自分の中で、自分はこの人より上とか下とか知らず知らず順位をつけているのかもしれませんね。

または、相手の性格で自分の中に距離をとる度合いも何となくつけてしまっている。

どうしても人と人との間には目に見えない何かがあってうまく距離と保とうとする感覚のようなものがあります。

そんな時、人当たりが良い人は得なのか?と言うとそういうわけでもないようです。

あの人なら!と言うその人に対しての印象により物事を頼まれやすくなったりしてしまう事も有ります。

なので、印象が良ければ良しみたいなことではないですよね。

そこは人の「自分より上か下か」という不思議なジャッジ機能に対して、あなたにとって私は「対等」に持っていく必要はありますね。

  

ポジティブ・ネガティブ

人はなぜか負のエネルギーに囚われる

職場にいつもネガティブな発言をする男性がいます。

そして彼の愚痴は彼の中で聞いてもらえると思っている人に発信されます。

「あの人は怒られないけど、僕はいつも怒られる。
さっきもあの人と同じことで僕だけかなりきつく怒られた。」

そういうことを日々言っている人です。

一緒に仕事をするようになってまだ一カ月も経ちませんが、彼は初対面からいきなり愚痴だった事と、その後も指摘がある度「怒られた」「いじめられた」と言っているので最初のうちはやたら愚痴が多い人だなぁ・・・と思って聞いていました。

マイナス思考の塊の人ってこんな人の事なのかな?
でも何かが違う気がする・・・。

彼の会話の中に当たり前に愚痴が盛り込まれていることに気が付き、しばらくするうちに更に気付いたことがありました。

彼の発言には「怒られた」と言う事だけが印象に残っていて、何に対して何をしたからそういう結果になったのか?その部分は出てきませんでした。

彼が怒られたというたび愚痴るのですが、何故怒られたのか?は分からないまま。
私はそれで彼の仕事が改善できたのかだんだん疑問になってきたのです。

彼の行動を注意深く様子を見ているうちに発見したことは、仕事をする上で大切な肝心な部分が抜け落ちていました。

何故わかったのかは、注意されたにもかかわらず同じことを何度も繰り返していたことを見てしまったからです。

え?今更?と思う事を何度も聞く。(過去に何度もメモっている)
聞いたのに同じことを繰り返す。(確認した意味がない)
起承転結で言えば、起承は覚えているけれど、転結を考えた時に起承の部分が消えて分からなくなってしまう。
繰り返し説明したこともその場では理解したと思っても、場を離れたり数日過ぎると分からなくなってしまう。

これだけの事が重なって私は何かしらの発達障害かな?と感じました。

その上、周りからは困った人だと印象を持たれ彼自身もいつも注意や怒られるが当たり前になり慣れてしまい、いつの間にか発言がネガティブになっているのかな?

私は我が子がいじめから不登校になりうつ病になり発達障害と診断された経験から、自分なりに関する書籍を読みあさり周りの理解や環境で改善されることを学びました。 

私よりも年上であろう彼の発達障害の克服は無理でも、ネガティブな部分を成功体験を積んで自信を持てる手助けができるといいなと考えています。

ポジティブって言葉は今ではなんだか押しつけがましくてうざくて嫌いなんですけどね。
成功体験は大きな自信になります。

  

ある日の出来事

ある時、また彼がした行いがお客様へ迷惑をかけてしまう事が発生。

案の定「また、めちゃくちゃ怒られた。なんでか分からん。」と愚痴を吐きました。

「本当に分からないんですか?」と聞くと「いや、僕が出してはいけないらしい商品を売り場に出したから怒られた。」と。

「分かってるじゃないですか。」

「でも最初に聞いたら出していいって言ったから。他のは出したらダメとは聞いてない」

彼の言い分を聞いてみると、同じようなグループにA商品、B商品、C商品~複数あり、A商品の見本を売り場に出していいか聞いていいという返事をもらったので、B、C、その他も全て同じように出していたそうです。

「Aは出していいと聞いたから出したんですよね?
Aについて聞いたからAについてのみの返事だったのでは?」

「あ。」

「他のは出したらダメとは聞いていないとは、確認したわけでは無いんですね?」

「あっ。そうか。他のはしてない」

「見本が出てる場合、売り切れ表示が無いとお客様は販売してると思われますよね。
でも在庫がないとどうなりますか?」

「お客さん怒るね。」

「怒るではなく、お客様にご迷惑をかけ信用を失います」

「なんだ。僕の考え方か。」

「そこではなく、出す前に確認さえすればいい事ですよ。」

彼は思考の道が私とはかなり違いました。

その後もずっと愚痴って怒られた失敗したといつまでもぶちぶち言っているので、

「怒られたと捉えるのではなく、今回の事で気付くことができたのだから良かったじゃないですか!
そう考えてくださいよ。」

「確かにそうだね。僕の性格の癖でなかなかそうは考えられなかったけど」

今まできっと彼の行動で迷惑をかけられたと思う人は多かったようです。

周りの皆がどこまで心の余裕を持って接することができるのか。

褒めると図に乗る彼(笑)に日々良い言葉をかけ続け、しっかりと仕事ができるように導けられたらと思います。

  

50代って結構いいかも♪

年齢を重ねるって悪くない

周りを見る余裕があるわけでは無いけれど、50代になった頃から感じた事があります。

多少の事はどうでもいい(笑)
そんな気持ちが生まれたかもしれませんね。

若い時は、こうじゃなくちゃ、ああじゃなくちゃ!という誰に言われたわけでもない縛りみたいな見えないルールみたいなものが自分の中にあっていつも人の目を気にして比べていたのかもしれません。

できないことをどうするかと考えるよりもこの世の終わりみたいに感じて絶望していたのかもしれません。

世間一般的を当たり前としてボーダーラインを決めてそれに乗っかっていれば安心なんて変な考え方でした。

人って十人十色。
100人いれば100人100色。

その多くももちろんみんな違ってそれが当たり前。
日本人の万人が同じでなくてはいけない思考や痩せていないと綺麗じゃないとかこのレベルじゃないとダメとか年齢だからあきらめなくてはいけないとか諸々。

どうでもいいって思える年齢になるのに時間がかかるのかもしれません。
勿論そんなこと20代から思っている人もいれば70代でもまだしがみついてる人もいるでしょう。

なんだか面倒くさい事が多い世の中で、自分は自分でいい事を知り、自分を大切にすることを学び自然に人に伝わって行く流れを感じて今日も私は生きています。

自然にね♪

つぶあん

コメント

  1. ココ より:

    いますね~愚痴の多い人。
    私ネガティブな気を吸収しやすいんで本当に疲れます(¯―¯٥)
    でも学べる部分って多いですね(^^♪

  2. つぶあん より:

    ココさん 気を吸収しやすいって部分やっぱり強いですか?それは疲れると思います。いっそのこと跳ね返せるといいですね。確かに学べる部分は多いと思います。自分は自分から見えないので私も人を見て学ぶことは多いですね。

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