こんにちは。つぶあんです。
先日、ある本を読んでいてふと目に着いた文章からこの記事を書いています。
それは、もっと近道があったのに、遠回りしてしまったと思う無駄になったかもしれない時間と言うような内容です。
近道がいいか、遠回りがいいか。
カバラ占いとか、数秘術(もしかして同じ?)では、数秘が1の私は、「リーダー気質があって物事の結果が早く欲しい性格」らしい。
何かを始めた時に早く結果を出したいがゆえにスタートダッシュには勢いがあるけれど、時間がかかることに対してもどかしさを感じ、飽きてきて諦めてしまい、結果的に挫折するんだとか。
なるほど。一理はある気がする。と、自己分析。
確かに結果は早く欲しいし、できることならショートカットして近道したい。
それが最も分かり易いのは車の運転で、どちらかと言うと数秘1の性格が出る。
仕事をしていた時は、いかに短時間でより多くの仕事を正確にこなすかを常に考えて行動していた。
結果にたどり着くまでの過程
すっ飛ばして結果が欲しいのかと言うとそうでもなく、小さなときから何かを育てるのが好きで、ほんの少しだけ変化する日々の様子を観る⇨その過程が好き。
一つの種を植えて、芽が出て葉が出て太陽を浴びてぐんぐん育って花が咲き種が取れて枯れて終わる。
また翌年に撒くことができる種が結果なのかな?
自分で育てて、陽の当たり具合や、強い雨に当たりすぎないようにと気を遣って時間帯で移動させたり、大きな花を咲かせて無事に種を収穫できたという達成感が自信と経験に。
他にも、観葉植物とか、一年草とか、多年草とかさぼてんとか、長年お世話をしてきていているので、ずっと我が家にいるポトスは増えた時に欲しいと言っていた友達のお宅へも。
グリーンショップで綺麗に出来上がったポトスを買って来ておしゃれに飾った瞬間よりも、時間がかかり遠回りしているように思えがちな「形が変な我が家のポトス」は本当に可愛くて、実際はいろんな時を共にして愛着がある事に気付く。
これこそじっくりと時間をかけてきたおかげで育った感情。
先日スイーツを作っていて、作る過程が重要だと痛感したことも、こういった遠回りに似ているよう。
途中の結果を急ぐと出来栄えや味や食感に差が出るので遠回りした方が良いこともある。
若い時と今
若い頃は分からなかったことも、年齢を重ねた今なら分かることが増えたと実感する。
最近ようやく気が付いたAC(アダルトチルドレン)だったという事も、このタイミングで理解できたことは意味があるのだろう。
私の場合は、子供が小さな頃に2人を連れて離婚を経験して実家に戻って両親と同居をすることになって今に至る。
その時は一人だけでは子供を養えず経済的な自立ができずに戻ったくせに、あれこれ口出しして孫に過干渉になる母の事を恩着せがましいとさえ思い、感謝はすれども助けてもらうのが嫌だった。
離婚をせざるを得なくなった事実が辛くて一生懸命仕事をすることで自分自身を保っていた。
今は、そんなこともあったなと思う。
思う通りにならないと切れる母に感謝の気持ちを持てるようになった時、母の態度さえ腹も立たなくなった自分がいた。
そしたら不思議な事に母も変わってきたように感じている。
本当に、これは最近の数カ月で自分自身の変化を実感しているちょっと驚いていること。
こんなことが起きるとは思わなかったほどの分かり易い変化を感じて自分も人も自分次第だと思った。
無駄だと思う事も沢山あった
我が家の場合は、私が仕事でほぼ朝晩しかいなかった生活なので、子供と過ごす時間が本当に短かった。
寂しい思いをさせないように、兄弟で遊べるようにとゲームも買っていたので、ある程度のゲーマーに育っている(笑)
言い訳するようだがもちろんただただ買い与えたわけではない。
誕生日やクリスマスのプレゼントだったり、時にはご褒美だったり。
確かにお母さんは、そんなことで沢山お金も使ったよ。無駄使いかもしんないけど。
休みの日は外に触れさせたくて近場しか行けないけれど自然に体験できる事に連れて出かけた。
土日も仕事だったので、休みの前日には夜まで営業しているプールに毎週通って一緒に泳いで触れ合ったり。
それでも、そんなことはすっかり忘れて、「小さな時のどうしても忘れられない嫌だったこと」について、先日次男にはぼろくそに言われたし。(苦笑)
その後、「忙しかったけど時間作っていっぱい出掛けたよね。本当は楽しくなかったのかな?」と話したけれど。
↑でも次男曰く、「そういえば、いいことも沢山あったんだね。」と思い出してくれたのか、「お母さんとのわだかまりはすでに溶けてきた」そう。良かった。
結果、その無駄と思うほどの事が今に生きている。
そして、子供との確執だった事さえ今に活きるように変化してきた。それも急に。
小さな無駄の様だった諸々も、やっぱり意味があって、事実その時に満足できていたから工夫ができるように成長しているのだ。
沢山の景色が見える
こんな風に、近道をせず、遠回りしたから見えたことがある。
もし、私が離婚した時に実家に戻らず、経済的に無理をしている境遇だったら。
きっと今頃は怖い顔しながらヘトヘトに疲れていたかもしれないし、子供の事に向き合えず余裕が無くて母とは特に全く分かり合えていないままだと断言できる気さえする。
そんな悪循環で、父に先立たれ一人で生きている母を遠方に残したまま疎遠になっていたかもしれない。
少し話がずれるが、父が亡くなる時、父は父の姉(私にとっての叔母)と喧嘩しており断絶状態のまま亡くなった。叔母の方からの歩み寄りが全くなく距離を置いていて仲直りしないまま、父がこの世を去った。兄弟姉妹も多い父なので皆遠方から見送りに来てくれたが、伯母は体調を崩して葬儀には来なかった。ショックだったのかな。
後日の叔母は、私にはとても心残りだった様子が感じ取れた。私にはとても優しく私を通して心の荷を下ろしたかったのだと思う。
あんなに母にきつかった叔母が、父亡き後、母にさえ優しい人になり、父が生きているうちにそうすればよかったのにと母の口からも漏れていた。そんな叔母も去年亡くなって我が家に来て今は父の遺影と隣同士で微笑んでいる。
「おばさん、お父さんの隣で良かったね。」と遺影を見るたびに思う。ちょっとほろっと来てしまった(笑)
叔母は、父よりもとても長生きをしたが生涯独身で子供もいなかったため、強気な人だったが私には養女になって欲しいと言ったくらい本当は寂しかったのかもしれない。
父の生前お見舞いにさえ来なくて悔やんでいただろうなと思いながらも、旅立った後で同じお墓に入ることを思うと魂は出会えたかもしれないとホッとする。
こんな風に遠回りをしてしまったけれど、今となっては見えてくる景色が違うものなんだなとしみじみ思う今日この頃。
叔母は本当に遠回りをしたと思うが無駄ではないんだよ。逆にもっと豊かな心を育んで私の心に残してくれて行った。
まとめ
今回は、自分が無駄だったのかもしれないと思うその時間も実は簡単な道よりも重要で深くて見える景色が違うという事を書いて来ました。
そして、blogにも言えますよね。時間がかかること。細長い道をてくてく歩いていくかの様ですが、隣で一気に車で走ってしまうよりも周りの景色が良く見えます。
つぶあんぶろぐは、こんなことも書いていきます。
人は誰しも、スムーズには生きてはいないですものね。
一見無駄のように感じることも、近道するよりも見える事や聞こえてくることがあります。
それは過ぎてみないと分かり得ない景色です。
何が起きるんでしょうね。
そう考えるとちょっと楽しみで、これからもゆっくりでもいいから確実に一歩一歩進んでいきたい。
そんなことを考えます。
つぶあん
コメント